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★ 姫路の地名 ★

姫路の地名の特徴

 姫路の地名の特徴は、以下の3点ではないでしょうか。もちろん、専門的にはまだまだ色々あるで しょうが、辻本のよ うな素人にもわかりやすい特徴の話です。
1) 政令指定都市でもないのに、○○区というのがある。
2) 城下町らしい地名が比較的よく残っている。
3) 姫路城を含む「姫路市本町68番地」というエリアが異常に広い。

★ 「区」の不思議

 まず、1から。現在姫路市には次のような6つの「区」があります。
 網干区、大津区、勝原区、飾磨区、広畑区、余部区。
 もちろん、政令指定都市のように、区役所があるわけではなく、市域のすべてに「区」がついているわけでもありません。 姫路市はアゲハ蝶が羽を広げたよう な形ですが、「区」は、その左下から中央下にかけての部分にかたまっています。面積的には全市域約273平方キロのう ち、6区は約50平方キロぐらいだと 思います。そして、その大半は、昭和21年(1946年)3月に姫路市に編入された地域なんです。

 現在の飾磨区は、かつて飾磨市、広畑区は飾磨郡広畑町、網干、大津、勝原、余部はそれぞれ揖保郡網干町、大津村、勝原 村、余部村でした。姫路市は明治 22年(1889年)に全国最初の市のひとつとして誕生して以来、周辺市町村を次々と編入してきましたが、「区」という 形になっているのは、このときの編 入だけです。どうしてでしょうか。

 辻本は、カギは「飾磨市」かな、と思います。編入された周辺市町村のうち、市は飾磨市だけです。しかも、飾磨市は昭和 15年に飾磨町から市制施行したば かり。それだけにわずか6年で姫路市に呑み込まれることに対して、住民にこだわりがあったのではないでしょうか。そのた め、飾磨市の顔を立てる形で「区」 という形にした。そして、同時に編入した他の町村も同様にせざるをえなかったのではないでしょうか。この推測があたって いるかどうか、改めてきちんと調べ てみたいとおもいます。

 さらにつけ加えておくと、昭和21年に編入されたのは、現在「区」がついている6市町村のほか、飾磨郡白浜町もありま した。ところがここには「区」がつ いていません。現在は普通に姫路市白浜町○○となっています。なぜ、ここだけ例外なのか、これも宿題です。

 その後、この時の合併直後の姫路市の地図を見ると、白浜のあたりは、しっかり「白浜区」と書かれており、区は7つあり ました。なぜ、白浜だけ「区」が消 えてしまったのか。新たな宿題です。

 ちなみにこの昭和21年の合併は、当時の原惣兵衛市町が、占領軍の軍政武官ラモート中佐に構想を持ちかけて協力を求 め、占領軍の命令によって進められた ことから「ラモート合併」と呼ばれたそうです。(この項、10月13日加筆)

【追加】 この件に関して、姫路市網干区在住の方から、次 のようなご指摘を いただきました。
 この「区」は、いわゆる行政区でなく、財産区の「区」だと、私は理解しています。合併に至る 詳しい経緯は知り ませんが、合併以前の市町村(飾磨市・飾磨郡広畑町・揖保郡網干町・々大津村・々勝原村・々余部村)の財産につい て、それぞれの市町村が保有したまま合併 に至りました。それでこれらの地域には「区」がつけられたものと思います。

 なるほど、「財産区」というのは説得力があります。たぶんこういう事情だったのでしょう。ありがとうございまし た。(2003- 01-19)

★ 城下町らしい地名

 行政の効率化のためか、一時全国的に、住居表示整備との名の下に、古い地名がどんどん味気ない ○○△丁目に変えら れていきましたが、姫路は比較的古い地名が残っている方です。手元の昭文社兵庫県都市地図(99年版)巻末の町名索引を 見ると、姫路市の町名は471項 目。人口規模がほぼ同じ尼崎市は144項目、人口がやや少ない西宮市が320項目です。

 全国的に比べられるものだと、郵便番号簿「ポスタルガイド」があります。手元には平成9年(97年)版しかありません が、姫路市は455項目で、約6列 になります。他の人口 40-50万クラスの都市を見てみると、4列くらいのところがほとんどです。(人口32万人の富山市は9列弱でした)。 ちなみに、姫路の「ライバル」金沢 を見ると520項目。負けているとはいえ、いい勝負と言えます。

 話がちょっとそれますが、この方式で見る地名の多さの別格ナンバーワンは何といっても京都市です。お手元にポスタルガ イドがあれば、開いてみて下さい。 その圧倒的な多さに驚かれると思います。おまけにあちこちに同一町名があり、巻末に地図まで載っています。

 さて、そんな姫路市の地名ですが、古い地名と一言でいいますが、いくつかの種類に分けられます。(これも素人の分類で す)。

 まず、いかにも城下町らしい町名。
    「魚町」「塩町」「呉服町」「米屋町」「博労町」など。
 つぎに他の地名を含む町名。
    「生野町」「竹田町」「京口町」「龍野町」など。
 つぎに長い町名。
    「野里慶雲寺前町」「三左衛門堀西の町」など。

 最初のグループは、城下町に一般的な地名で、同業者がかたまっていたところですね。「鷹匠町」「同心町」なんてい うのもあります。
  地名を含むグループは、旧街道沿いにあることが多く、「京口町」は京へ向かう街道の出発点、「龍野町」は城下か ら龍野へ向かう街道沿いに細長くのびて います。「生野町」「竹田町」も但馬街道沿いと言えなくはないですが、ここは、目的地を示すというより、天正8年 (1580年)に本格的な姫路城を築いて 中国平定の拠点とした羽柴(豊臣)秀吉が、但馬地方を攻めた後、その地方の町人たちを集めて住まわせたと言われてい ます。生野は著名な銀山のあったところ なので、鉱山技術者を連れてきたのかな。竹田は現在の和田山町の一部で、山名宗全の築いた名城・竹田城で知られる所 です。
 長い町名のうち「三左衛門堀西の町」は、現在の姫路城を作った池田輝政が、外堀と瀬戸内海を結ぼうと考えて掘り始 め、結局中断した三左衛門堀(輝政は池 田三左衛門輝政といいました)の西側で、同じく東の町もあります。
 野里慶雲寺前町は、さきほどの生野町などに近い、城の北東部にあり、このあたり野里○○町がかたまっています。ま た米屋町、同心町、金屋町、鍛冶町、鍵 町、それに五郎右衛門邸などという町名もあるなど、歴史を感じさせる地名が集中しています。

★ 異常に広い「本町68番地」

 この話は、最近、朝日新聞の夕刊で大きく報道されたので、覚えておられる方も多いでしょう。読売 新聞でも、 1996年の5月に地域版で紹介されています。

 この番地の地域は、ちょうど姫路城の中堀の内側にあたる約107ヘクタール。城そのものをはじめ、警察署、郵便局、国 立病院、市立美術館、県立博物館、 短大、高校、中学、小学校などの多くの施設のほか、県営住宅や一般の民家もたくさんあります。
 南側の中堀(現在は埋め立てられて国道2号線)をはさんだ南側にかつて67番地まであり、明治になって中堀の内側(中 曲輪=なかぐるわ)が旧陸軍の土地 になったときに、一括して同じ番号をつけたためといわれています。そして戦後、土地が国から県、市、個人に払い下げられ た後も、「お城と同じ番号がいい」 との思いが強かったためか、番地を変更する話は出てこなかったというのです。

 現在、一般の住宅が集まっているのは城の南側、大手前通りをはさんだ両側で、東側は「お城本町」、西側は「白鷺本町」 と、それぞれ通称で呼ばれることが 多くなっています。しかし、両地区とも再開発が進んでおり、一般住宅はどんどん減ってきています。このため、広い本町 68番地とはいえ、いずれは敷地の広 い公共施設ばかりとなって、それほど不都合はなくなってしまうのかもしれません。