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★ 宇和島城と郷土館(2002年12月10日)

全国に現存天守は12か所しかないのに、
愛媛県には、松山城の他にもう1つ現存天守があります。
それが宇和島城です。
辻本は1979年に宇和島城を訪れたのですが、
天守は閉まっており、中に入れませんでした。
今回、ようやく念願をかなえることが出来ました。

1)搦め手の「上り立ち門」

 本来はお城を訪れると正面玄関である大手門側から入るのですが、今回は仕事のついでに寄り道したので、搦め手側から城山に登りました。
 城山の南側、国道56号線に面して登り口があり、上り立ち門が建っています。

 簡素な薬医門ですが、寛文年間(1661-72)に城全体が大改修されたときの建築だと推定されており、天守以外では唯一の現存建築です。宇和島市の有形文化財に指定されています。
 手前の銅像は、宇和島市出身の児島惟謙(これかた)です。1891年(明治24年)に大津市で来日中のロシア皇太子が警備の警察官に切りつけられた「大津事件」の際、死刑にすべきだという声に対して司法の独立を守った大審院長として有名です。辻本は大津にも住んでいたので、児島惟謙さんには親近感があります。
 門を入って石段を少し登ると、左の写真のような看板が立っています。城跡整備調査の「イメージ図」です。
 また現在、城の石垣などを修復する工事などが行われており、二の丸までショベルカーなどの重機が入っています。このため、右の写真のような工事用の仮通路が出来ていました。

2)平和な時代の三重天守

 搦め手のルートは本丸の西側を北へ向かい、長門丸から本丸の東側へ回って、大手からのルートと合流します。
 天守は独立式の三重三階。天守台の石垣が高さ3.7mと低いので、こぢんまりとした感じです。土台から棟までは高さ15.8m。白壁の総塗込造りで、小さい割には唐破風や千鳥破風が賑やかです。斜めから見るとそれがいっそう良くわかるのですが、右の写真のように井戸と樹木が邪魔をしてしまいます。
 近世城郭としての宇和島城は、1595年(文禄4年)に宇和島に入った藤堂高虎が、翌年(慶長元年)8月に着工。1601年(同6年)ごろに完成したようです。当時の天守は、最上階に手すり付きの回廊がついた望楼式だったようです。
 その後、先に述べたように寛文年間に大改修して、現在の姿になりました。石落としや銃眼などが設けられていないのは、すでに戦乱とは縁のない時代になっていたからだと言われています。

 最上階の内部です。目立つのは、どこにでもある全国の城郭の紹介ですが、1960年10月から丸3年がかりで行われた解体修理の際の記録写真や、寛文年間の棟札、シロアリに浸食された柱などが展示されており、これは興味深かったです。

 最上階からの眺望です。これは北東側の市内中心部です。
 手前右側の大きな建物は、えひめ丸事故の一周忌法要も行われた南予文化会館。
 正面の方向にJR宇和島駅があります。

 こちらは南西側。手前に見えるのが高校野球やサッカーでも有名な宇和島東高校。旧宇和島中学以来の伝統校です。
 その向こうの樹木の茂ったところが、藩主の隠居所の庭園だった天赦園です。

3)お宝いっぱい郷土館

 長門丸と隣接する藤兵衛丸には、入場無料の「城山郷土館」があります。古い民具や祭りの用具などに混じって、辻本の好きな地図関係の展示がありました。
 ひとつは、昭和初期の町並みを描いた手製の絵地図。非常にリアルに描かれています。

 もともとは小さな地図だったのを、郷土館の依頼で大きく書き直したということです。描いたのは製図屋さんとかで、さすが専門家です。

 もうひとつは、この吉田初三郎のパノラマ地図。(原画かな)。高い位置に架けられていたので、詳しく見られませんでした。撮影も手を伸ばして撮ったので、手ぶれでした。
 初三郎は「大正の広重」と自称した鳥瞰図作者で、最近再評価の動きが高まっています。10月には別冊太陽「吉田初三郎のパノラマ地図」が出ました。。辻本は堺市立博物館で開かれた展覧会を見に行ったこともあります。(初三郎については、例えばこのページを参考にしてください)。
 初三郎は1922年(大正11年)、皇太子だった昭和天皇が宇和島に来たのに合わせ、翌年に「東宮殿下行啓記念宇和島交通鳥瞰図」という地図をだしています。このページの「大正の宇和島」の中で紹介されていますが、この原画は、それとは違うようです。別冊太陽の目録によると、1953年に「観光の宇和島市」「全南予観光大鳥瞰図」というのを出しています。もう少しアップで見られたら、大正の地図か戦後の地図かは見分けがついたのに、残念です。
 郷土館のおじさんと、初三郎の話をしていると、「こんなのもある」と近くの火鉢を指さします。なんと、大正11年の行啓の際、宇和島中(宇和島東高)で休んだ皇太子が、暖をとった火鉢でした。宇和島東高で大切に保存されていたようです。

3)おまけ

 帰りのJRが肱川を渡るときに、天守復元中の大洲城がよく見えました。
 大きな覆いの中で五層の天守が建ちつつあります。左側の台所櫓と比べると、その壮大さがわかります。
 手前が肱川で、大洲城は松山城や宇和島城と比べると丘が低いので、よけいに天守が大きく感じられます。