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千姫ゆかりの男山

 男山は「播磨国風土記」で、大汝命(おおなむちのみこと)の舟がひっくり返り、筥(はこ=箱)の落ちたところが筥丘。それが現在の男山です。
 その名の由来については、江戸時代の播磨の案内書で、1762年(宝暦12年)に出版された「播磨鑑」に伝説が紹介されています。それによると、今の自衛隊駐屯地にあった長者屋敷から旅の男と女が逃げ出し、男が逃げてきたのを男山、女が逃げてきたのを姫山と名付けたといいます。

 辻本の自宅から見た男山。すぐ近所です。中腹に見える瓦屋根が男山八幡神社です。姫山とセットにされているとおり、姫山の北西にあり、姫路城天守からの距離はわずかに500m。こんな感じです。

 こんなに近いため、池田輝政が今の姫路城を築くときに、敵が姫路城を攻めるときの絶好の拠点となる男山の存在が気になったようです。それだけに、男山に直面する西の丸の渡櫓は、頑丈に作られているといわれています。しかし、今では男山と姫路城の関係は、千姫をキーワードに語られることが多いようです。

 戦国時代一の美女と名高かった信長の妹、お市の血を引く千姫が姫路城に入ったのは1617年(元和3年)のこと。池田輝政の没後、あとを嗣いだ利隆は早くに亡くなり、その長男の光政はわずか7歳だったため、鳥取に転封され、あとに桑名から本田忠政が城主として姫路に入りました。そして忠政の嫡男、忠刻(ただとき)の夫人が千姫です。ときに21歳。大坂夏の陣で、自害する秀頼と別れ、戦火の中から救出されてから2年後のことです。
 忠政は息子夫婦のため、三の丸に武蔵野御殿を建てました。そして西の丸には侍女らが控える長局(ながつぼね)が出来ました。長女勝姫、長男幸千代も生まれ、幸せな日々が続きましたが、幸千代は1621年(元和7年)12月にわずか3歳で亡くなり、夫の忠刻も病気がちに。千姫は1623年(元和9年)、男山の中腹に天満宮を建立し、長局の廊下の窓から朝な夕なに天満宮を遙拝して、新たな男児誕生と夫の健康回復を祈ったといわれています。しかしその願いもむなしく、1626年(寛永3年)に忠刻は31歳で死んでしまいます。再び未亡人となって江戸に帰る千姫を、大手門の橋のところに集まった多くの藩士や城下の町人が泣きながら見送ったそうです。

 西の丸の渡櫓や長局の足下には姫山原始林の樹木が生い茂り、現在はあまり眺望がよくありませんが、1、2カ所だけ、今でも男山がよく見える窓があります。こんな感じです。

 男山八幡宮の社殿はよく分かりますが、千姫の建立した天満宮はみえません。あとで紹介しますが、本当に小さな社なんです。足下を横切っているのは船場川です。
 ガイドブックの中には、「化粧櫓から天満宮を拝んだ」としているものもありますが、化粧櫓からは男山は見えません。あくまでここは、休息したり、化粧を整えたりするための場所でしょう。それから、千姫が建立した「天満宮」と、もとからある「八幡神社(八幡宮)」を混同した表現が見受けられることもあります。本当のところは辻本にもよく分かりませんが、八幡神社は源氏の氏神、戦の神であり、千姫が拝むにはふさわしくないような気がします。あとで紹介しますが、小さくかわいらしい天満宮のほうが、このエピソードにはよりふさわしいと思われます。

 それでは、いよいよ男山に向かいましょう。その前に周辺の位置関係のおさらいから。ちょうどいい地図が姫路文学館前にありましたので、ここに載せておきます。

 男山に向かうには、姫路駅からだとバスで「市之橋・文学館前」下車。北へ歩いてすぐに、ふもとに着きます。姫路城の天守に登ったあとに直行するのなら、入り口の菱の門の方へは戻らずに、「との門」から搦手口へ下り、内堀に沿って姫山の北側を歩き、北勢隠門跡から道路へ出て、船場川にかかる清水橋を渡ると石畳の道が始まります。そこを歩けばすぐにふもとの水尾神社です。


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