Home

▽お城めぐり
 姫路城石垣探訪
 
千姫ゆかりの男山
 
お城めぐりFANオフ会
 
松山城の初日の出
 松山城天守からの眺望
 松山城の櫓の特別公開
 松山城の桜
 松山城保存修理事業
 2003年カウントダウン
 大洲城と鵜飼い
 大洲城天守復元工事
 大洲城天守上棟式
 宇和島城と郷土館

▽日本のあちこち

▽Macのある生活

▽好きなもの色々

▽リンク

▽過去の日記



★初めに

 現在の姫路城がある姫山に最初に城を築いたのは、いつ、だれだったのか、という問題については、研究者の中にも諸説あります。ガイドブックなどには「鎌倉時代末の1333年(元弘3年)に赤松則村(円心)が姫山に城の縄張り(設計)を定め、次男の貞範が1346年(貞和2年)に城を築いた」と書かれていることも多いですが、最近の研究ではこの時代にはまだ城はなかったという説が有力です。

 確かな史料としては、1561年(永禄4年)の「助太夫畠地売券」に城の構えがあったことが書かれており、そのころ姫路を治めていた黒田重隆・職隆父子が、主君である小寺政職の許しを得て御着城の出城として築いたと考えられています。この重隆の孫が、あの黒田孝高(官兵衛)で、中国攻略のため播磨に乗り込んできた秀吉の将来を見抜いて姫路城を譲ることになります。そして秀吉は1581年(天正9年)、この地に三層の天守を持つ本格的な城を築きました。

 そして関ヶ原の戦い後、播磨に入った池田輝政は1601年(慶長6年)から大規模な新しい城づくりに取りかかり、1609年(慶長14年)に連立式天守を誇る城が完成。それが現在まで残っているわけです。その後、本田忠政の時代に、西の丸の整備などが行われました。

 このように、現在の姫路城は池田輝政が築いたと言えるわけですが、秀吉時代の石垣もかなりの部分が残っています。また江戸時代を通じて補修も行われており、時代による石垣の違いを目の当たりにすることが出来ます。

 また、姫路城では石垣の材料として、石棺や灯籠、五輪塔などの石材を利用した「転用材」があちこちで見られます。これも特徴の一つでしょう。

★石垣の積み方の違い

 時代による石垣の積み方は、大きく分けると「野面(のづら)積み」「打ち込みはぎ」「切り込みはぎ」の3種類になります。
 (正確に言うと、積み方というより、石材の加工の仕方による分類と言った方が、適切かもしれません。積み方としては、石の並び方や目地の入り方によって、乱積み、布積み、谷積み、亀甲積みなどがあり、名称は一定していません。それらを先の三分類と組み合わせて、「切り込みはぎの布積み」などと使ったりします)

 さて、姫路市教委が発行している「姫路-お城物語」にわかりやすい図が出ているので借用します。

 加工していない自然石を積んでいくため、石の形も大きさも不揃いです。特に隙間に詰める小石が目立つのが特徴です。
 あまり高い石垣は築けないのですが、「ゴボウ積み」といって石の大きい面を内側にして積んでいることと、水はけが良いために意外と強固だということです。

 石の角を槌でたたいて平たくして組み合わせる方法。関ヶ原の合戦以後、慶長のころは、この手法が盛んに用いられ、姫路城でも主流になっています。
 野面積みより高く、急な勾配が可能になります。

 もっとも新しい積み方です。タガネで削って四角形にした石を、隙間無く積み重ねていく手法。
 時代的には寛永以降によく見られ、姫路城では部分的にしか見られません。


 それでは、次のページから実際に姫路城の中の石垣を訪ねてみましょう。

「home」へ / 次のページ