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★石垣の時代区分
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姫路城は広いので、地図を見ながら歩かないと、現在地がわからないことになります。写真を撮影した場所も、言葉だけではわかりにくいので、地図を掲載しておきます。
クリックすると別ウインドウで開くので、番号を対比させながら見てください。
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2000年2月19日に開かれた「姫路城石垣見学会」で案内していただいた姫路市教委文化課の山本博利氏は、姫路城の石垣を4つの時代区分で分けておられました。
第一期は秀吉の築城とその後の秀吉一族(羽柴秀長、木下家定)時代、つまり関ヶ原の合戦までの時代です。野面積みです。
第二期は池田輝政の築城時(1601年から1609年まで)。第三期は本多忠政の改築時(1618年から)で、第二期との違いは判別しにくいとのこと。ともに打ち込みはぎです。
第四期は松平時代(1639年ごろ)から幕末までの長期間で、修理や補強などの手直しが中心ですが、切り込みはぎの石垣が一部見られます。
以下の説明は、基本的に見学会の際の解説と資料を中心にしたものです。
★秀吉時代の石垣
まず、第一期の石垣から。
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地図・赤の1。
菱の門の東に続く石垣です。
野面積みの特徴である、隙間の小さな石がよくわかりますが、手前の木が写真を撮るのにちょっと邪魔です。
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地図・赤の2。
下山里丸の石垣です。こちらのほうが、より古風な感じがします。「山里丸」という名前自体も、秀吉好みのものです。
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上の下山里丸の写真は、ちょうど角の部分なのですが、角度が非常に鈍角になっているのが特徴です。写真で見ただけでは、コーナーとわからないかもしれません。こういうコーナー部分を「シノギ角(すみ)」と呼びます。
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地図・赤の3。
本丸の北側、急傾斜の姫山原生林に臨む石垣で、普段は立ち入り禁止の場所です。この写真は、石垣見学会の際のものです。
コーナーの部分は「算木積み」ですが、後で見る後の時代と比べるとずいぶん素朴です。
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地図・赤の4。
上の写真のやや左手部分です。
野面積みの小石がよくわかります。
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さて、見学会でもらった図面によると、本丸の北側部分はほとんどが第一期の石垣です。想像以上に秀吉時代のものが残っているわけです。
つまり、池田輝政は、天守については秀吉時代の三層天守を壊して、現在の連立天守を築いたものの、平面計画は、秀吉時代の古い縄張りをそのまま再利用しているわけです。
この点について県立歴史博物館の堀田浩之氏は、野面積みの窮屈な塁線は「西国将軍」とまで称された輝政の居城としては、軍事性に問題があると指摘した上で、輝政の姿勢として籠城戦を想定していなかったことと、名古屋城などの普請にかり出されて十分な資金と労力を姫路城に注ぎ込めなかったのではないかとしています。
そして、その上で、天下人だった秀吉の遺産を継承することは、政治的な意味合いがあり、江戸の徳川幕府と一線を画して並び立つ独自性への強い意思表示が読みとれるのではないかと書かれています。
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