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★ 来遠橋(日本橋)(2025 年3月)

(青枠の写真は、クリックすると大きい写真が開きます)


ベトナム中部、ホイアン市の旧市街は、「ホイアンの古い町並み」として「世界文化遺産」に登録されています。
そしてその古い町並みのシンボルが、「日本橋」とも呼ばれている「来遠(らいえん)橋」です。
ベトナムの現在の20,000ドン紙幣の裏面にも描かれており、ベトナム全体でよく知られた橋です。



長さ18m、通路の幅3mという小さな屋根付き橋ですが、橋の北側にお寺が一体となっており、
ホーチミン市のBook Streetで買った「Picture Atlas of Vietnam」では、
「Hoi An Bridge Temple」として紹介されています。



これは現地でもらった パンフレットの「ホイアン 旧市街の観光マップ」です。
メーンストリートのチャンフー通りと、グエン・チ・ミンカイ通りを結び、細い水路をまたいでいます。
地図では水色で橋の絵が丸で囲まれており、他の観光スポットとは扱いが違います。
南側には川辺の通りをつなぐ鉄橋があり、最初の写真はその橋から写しています。



ホアイ川の対岸、新市街から見たのが上の写真です。
来遠橋の東詰め(写真の右側)と手前の鉄橋との間は、広場になっており、
大人数のグループでも記念写真を撮ることが可能で、常に混雑していました。



橋に近づきました。屋根の上の青い装飾は瓦でしょうか、陶磁器のようにも見えます。
軒に吊るされた提灯には「ホイアン」と日本語が記されています。
2022年の年末から大規模な修復工事が行われ、24年8月3日に完成式が行われました。
修復工事については、「ダナンが好き」 というサイトのこの記事が詳しいで す。
現地のニュースを見ていたら、「苔のある古い建築物の美しさが失われ、違和感がある」などの声もありました。
実際に見ると、屋根の青い装飾はつるつるピカピカで、橋げた部分が白っぽいのは確かに目立っているものの、
橋脚や柱、屋根瓦などは古いものをそのまま使っているようで、上手な修復だと思いました。

 

左の写真は、東側の入り口です。側面は何も装飾がありませんが、
入り口の両側には彫刻が施されており、漢詩?も記されています。
向かって左は「紫微雨将定坤申」でしたが、右はチェック漏れです。
右の写真は東側から見た橋の内部です。屋根組みは本格的です。

 

橋に入ってすぐのところに、犬と猿の像があります。
東側入り口の両側に犬が2匹、西側入り口には猿が2匹、それぞれ向かいあっています。
これは干支の申(サル)年に橋の建設が始まり、戌(イヌ)年に完成したから、
とガイドブックやネット記事では紹介されています。
その一方で、ほとんどの記事に「1593年に橋が架けられた」とも書かれています。
干支の一覧をみると、1593年は「癸巳(キシ=ミズノト・トリ)」です。
近くの申年は1584年(甲申)、1596年(丙申)だし、
近くの戌年だと1586年(丙戌)、1598年(戊戌)になります。
どうしてこういう説が残っているのでしょうか。

 

犬と申の像の近くにはそれぞれ碑文がありました。
左は漢文で、下の説明には「1817年に日本式屋根付き橋が修復されたことを記録した碑文」とあります。
右には「RESIDENT LESTERLIN GALTIER」という欧文と、
漢文で年号もいくつか記されているのですが、判読できませんでした。

ホイアンは古くからの国際的な港町として栄え、
6世紀末にはオランダ人、中国人、日本人が訪れていたようです。
この橋は、日本人街と中国人街を結ぶ橋として、日本人商人の手によって建設されたとも言われています。

1593年かどうかはともかくとして、1635年の日本の鎖国までには架けられていたのでしょう。
そして現在の橋はその当時のものではなく、後に架け替えられていると思われます。

「日本橋」と呼ばれているのは、架橋時の状況によるものですが、
「来遠橋」という名前は、1719年に当時のベトナムの国王、阮福淍(グエン・フック・チュー)が
論語の「朋あり遠方より来たる」から名付けたと言われています。
ベトナム語では「Lai Vien Kieu」です。
1719年の干支は「己亥(キガイ=ツチノト・イ)」なので、
もし1716年(丙申)に建設を始めて、1718年(戊戌)に完成し、
その翌年に命名されたとするなら、犬と猿の像の話は整合性があります。
現在の橋はこの時の再建なのかもしれません。

ただ「VIET READER」という英 文サイトの解説記事では、
「屋根の梁に記録された日付と、橋頭に残された碑文によると、1817年に再建された」と記されています。
この「碑文」は先に紹介したものなので、1817年の修復は再建と呼べるものだったのでしょう。



橋の中央部、お寺の入り口には「来遠橋」の立派な扁額が掲げられています。
右の柱には「屹然砥柱中流立」、左の柱には「由此雲衛萬里道」とあります。
三門峡ダムの前の黄河に「中流砥柱(ちゅうりゅうしちゅう)」という巨大な岩があり、
激しい流れの中に何千年も立っていることから、
困難な環境の中でも中心的な役割を果たすという故事成語になっています。
左は「ここから雲がまもる万里の道(が始まる)」みたいな意味でしょうか。



中に祭られているのは、仏像ではなく、嵐や洪水を鎮める神様だということです。
お寺というより、神殿というほうがふさわしいのかもしれません。
神像の左右には古い写真も飾られていましたが、
今回はツアーで訪れたので、ゆっくり確認できませんでした。



こちらは西側の入り口。東側と違ってせせこましいです。
右の手前は工事の囲いです。
入り口の左側には「看花人到馬蹄雷」、右には「玩月客来船尾電」とあります。
人や船が集まって賑わっている様子でしょうか。

橋というのは、いつの時代も、世界のどこでも、人が集まる場所です。
特にこの日は、月に一度の「ランタン祭り」の日でした。



この写真は、上の西側入り口の写真を撮ってから約2時間後、17時頃の東詰めです。
様々な国の観光客が往き来しています。



ホアイ川の岸辺には、お客を待つ小舟が集まっています。
黄色い壁の建物がホイアンの特徴です。



この日は来遠橋西詰めに入り口があるレストランで夕食を食べました。
上の写真は、ホアイ川に面したレストランのテラスから、新市街を望んで撮りました。
時間は17時51分、これくらいが一番きれいですね。



夕食終了後に灯籠流しを体験。
水辺に降りるのではなく、長い竿のついた網に灯籠を載せ、水に浮かべました。



その後、新市街がわのナイトマーケットをみて、来遠橋側を写しました。
手前に赤いシェードの灯籠が流れているのがわかるでしょうか。



こちらも同じ場所から。この2枚は19時20分から30分に撮影しました。
「ランタン祭り」では町中の照明が消され、ランタンの明かりだけになります。
水面に映るランタンの明かりがきれいでした。
ただ写真ではちょっと暗くなりすぎたので、フォトショップで少し明るくしています。

以上で来遠橋とランタン祭りの紹介は終わりです。

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