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 男山のふもとには水尾神社があります。大きな絵馬がかかっていました。
 創建やいわれについては、また調べておきます。

 

 水尾神社の本殿の左脇から階段を上ると、千姫が建立した男山千姫天満宮があります。本当に小さなお社ですが、正面右の壁には羽子板の形をした絵馬がいっぱい奉納されています。

 

 大坂夏の陣で、家康はかわいい孫の千姫の命を救うため、「助け出したものに千姫を嫁がせる」と約束したと言われています。そして坂崎出羽守が千姫を救出するのですが、千姫自身は、江戸へ向かう途中、桑名あたりで警護をつとめた本田忠刻と出会い、恋に落ち、結婚することになりました。政略結婚が普通だった戦国期に恋を成就させた千姫にあやかろうとするのか、絵馬は「好きな人と結婚できますように」といったものが多いようです。
 羽子板の形は千姫が天満宮に羽子板を寄進したことにちなむものですが、小さなお社に、愛らしい絵馬はよく似合っています。絵馬はふもとの定行酒店(清水橋から水尾神社に向かう石畳の道の、神社の手前、左側)で販売しています。切手を貼ればそのまま郵送も出来るようで、そんな絵馬もありました。
 ちなみに、千姫が天満宮に寄進した羽子板は現在、姫路城の大天守の中に展示されています。千姫ファンには必見ですね。

 千姫天満宮からさらに階段を上ると、男山八幡神社に着きます。1346年(貞和2年)、姫山に初めて城を築いたのではないかという説がある赤松貞範が城の鎮守として創建し、歴代の城主が信仰してきたとされています。
 ただし、姫路城の起源については確実なところはよく分かっていません。赤松貞範説は、橋本政次氏が大著の「姫路城史」で述べ、ほぼ定説化していましたが、その後刊行された「姫路市史」では、そのころにはまだ城と呼べるものはなかったのではないかと、橋本説に疑問を呈しています。(この件については、このページの中の「姫路城の歴史」に詳しく書かれています)

 誰がいつ創建したかはともかく、社殿の前、というか一段低いところに建っている鳥居は、由緒正しいものです。上の写真でも鳥居に向かって左の脚に文字が掘られているのがわかるでしょう。そばに説明板もあります。
 説明によると、1704年(元禄17年・宝永元年)に越後・村上から姫路城主として移ってきた榊原政邦が1716年(正徳6年)に社殿を新しく作り直した際に寄進したもので、左の脚には武運長久と家の繁栄を願う長文を刻んでいます。なお、現在の社殿はごく最近に建て直された新しいものです。

 男山八幡神社からさらに階段を上ると、水尾神社の右手から一直線に続いてきた階段と合流し、頂上の「配水池公園」に着きます。文字通り配水池なんですが、上部が芝生張りの公園になっており、ベンチや解説板があります。標高は59m。姫路城天守の足下にある三角点が45.7mなので、ここからは天守群が同レベルで見えます。もちろん市街地もよく見えます。

 観光客はほとんど来ませんが、近くの人たちが散歩にきたり、東屋で本を読んでいる青年がいたりと、静かな時間が流れています。姫路城の喧噪に疲れたときにはお奨めのポイントです。

 さらに周辺をたんねんにあるくと、いろんな歴史スポットがあるようです。下の地図は水尾神社の境内にあったものです。

 山のふもとの姫路文学館は、姫路ゆかりの文学者を紹介するもので、ガイドブックにも必ず紹介されているメジャーな施設。設計は安藤忠雄氏。ちなみに姫路市西郊にある県立こどもの館も安藤氏の作品です。こどもの館は1987年7月、文学館は91年3月の竣工です。当時市長だった戸谷松司さんの市葬には、安藤さんも参列していました。

 最初、県立歴史博物館も安藤氏の設計と書いたのは辻本の記憶違いでした。正しくは丹下健三氏の設計です。スタイルがよく似ているので、よく確かめずに書いてしまいました。訂正します。

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