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大洲城と鵜飼い(その3)★
3)天守復元計画
さて、大洲市は2004年に市制50周年を迎えるのですが、それにあわせて大洲城の天守を復元する計画が進んでいます。
上は本丸の一角、高欄櫓の下に建てられている看板です。隣には明治の天守の写真も掲げられています。
復元構想はそもそも1984年(昭和59年)、「大洲市を考える百人委員会」が市制30周年を契機に天守再建を提言したのが始まりです。当時の建築基準法では、四階建ては鉄筋コンクリートでしか建てられず、1988年の完成を目指していました。
しかし、計画はいったん中断し、1994年になって「大洲城天守閣再建検討委員会」が発足。委員会の顧問には、復元掛川城を設計した宮上茂隆氏が就任。建設大臣が認定すれば木造で高層建築が建てられるようになったこともあり、木造での本格的な復元を目指すことになりました。
幸い大洲城は明治時代の写真が残っているなど資料が豊富で、旧態通りの完全復元が可能ということです。97年には宮上氏が代表を務める竹林舎建築研究所によって30分の1の模型が完成し、市役所のロビーに飾られています。
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なかなか立派です。手前が高欄櫓になります。
天守は四層四階で石垣の上からの高さは18.5m。愛媛県では現存する松山城が15.94m、宇和島城が15.24mなので、それを上回る高さとなります。
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延べ床面積は353.92平方mで、松山城の629.45平方mには及ばないものの、宇和島城の310.09平方mを上回ります。
外観は下見板張りで、壁の上部と軒裏は漆喰仕上げ。三層の屋根に唐破風、一層、二層の屋根には大小の千鳥破風がつきます。また二層目の窓が花頭窓になっているのが特徴です。
復元の費用は約20億円ですが、これまで市民らから募金が1億9000万円余り寄せられているようです。おおず赤煉瓦館にも募金の呼びかけがありました。
ところで市の計画によると、復元は天守、両櫓をつなぐ渡り櫓だけにとどまらず、最終的には本丸の周囲に立ち並んでいた多聞櫓や多くの隅櫓なども再建を目指すようです。
それはそれで望ましいことなのかもしれませんが、本丸の周囲を多聞櫓が取り囲むようになると、現在のような市街地を見下ろす眺望が失われることになります。もちろん、天守ができれば、その上からは素晴らしい眺望が得られるでしょうが、いまの気持ちのいい空間がなくなってしまうのは、少し惜しいような気もします。
4)日本三大鵜飼い
さて、6月1日は鵜飼いがスタートする日です。辻本もしっかり初日の鵜飼いを見てきました。
鵜飼いの船が出発するのは、肱川橋から2キロ余り上流の右岸側の河原です。この日は18時から、9月20日までの営業期間中の安全を祈る神事と、開幕式がありました。
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式典の前に、2羽の鵜に手綱を付ける鵜匠さんです。始まるまでまだ時間があるので、男性は私服です。右は、現在全国に2人しかいない女性鵜匠の佐々木コズエさんです。本番ではこの衣装の上に、腰ミノを付けます。
後ろには神事の祭壇が見えます。その後ろが鵜匠の乗る船で、3隻あります。一方、見物用の屋形船は66隻もあります。大洲市が「日本三大鵜飼い」と自称するのは、この屋形船の数が根拠のようです。
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肱川は色々な点でユニークな川です。その一つが、流れがきわめてゆったりとしていること。これは傾斜が緩やかだということで、河口から16キロ上流の大洲盆地で、水面の標高はわずか9m。かつては50キロも上流まで帆掛け船が行き来し、河口の長浜町は物資の集散地として大阪や台湾と結ぶ大型商船が寄港するなど賑わいました。
現在では上流に鹿野川、野村の二つのダムができ、川船の運航はありません。鵜飼いの屋形船の船頭さんの話でも、「昔はもっと水量が豊富だった」ということです。今はある程度の水深を確保するために、大洲城の少し下流に堰が設けられています。
さて、神事と開幕式が終わり、屋形船は19時ごろに出発。まだ周囲は明るいので、最初は食事タイムです。流れはほとんどわからないくらいで、船はそろりそろりと進んでいきます。そして20時、いよいよ鵜匠が乗る船に篝火が焚かれ、鵜飼いのスタートです。辻本のデジカメはシャッターのタイムラグが長いので、うまく撮影できません。おまけにお城でいっぱい撮影したので、電池が無くなってきました。
ちょっと苦しい写真ですが、雰囲気は伝わるでしょうか。
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